ゆこの 『 さいの目 日記 』 🎲

コロコロ コロコロ 今日は どちらに転がりましょうか

伝え聴き ①

お婆ちゃんは大分の日出に産まれた。

『花は霧島 軒の井じゃ おヨネ』と呼ばれる程の

綺麗なお母さんが居たらしい。

兄妹は三人。お兄さんと妹。

 

お兄さんは今の東京芸大の教授。

三島由紀夫の仲人さんで、

割腹事件の時は

お婆ちゃんを見舞いに来ていてテレビで知り

『三島くん なんて事を・・・』と嘆いていたって。

 

お婆ちゃんの長男は、芸術の才能が高く

叔父さんを頼って上京。

朝倉文夫先生に師事し

娘さん達に家庭教師をしながら学んでいた。

 

お婆ちゃんの旦那さんが病気で亡くなり

小さな子供を抱え途方に暮れていた時、

親孝行で働き者の人がいる。と紹介され

すぐに婿養子で入ってくれたのが、

私のお爺ちゃん。

あの時代はよくある事だった。

 

長男は、負担を軽くする想いもあったのか、

19歳で芸術を諦め、自ら志願しビルマに。

帰らぬ人となってしまった。

戦争が終わって、かなり経った頃

同じ戦場で戦った人が訪ねて来た。

とても優しく立派だった事。大切な手を損傷し

もし帰れても芸術を続けるのは難しかった事。

お婆ちゃんは泣きながら聞いていた。

 

「 時間が薬 」と言うけれど、

それが全てでは無いと知る。

お婆ちゃんも事ある毎に泣いていたし

70年以上経つ今も妹だった叔母は

お兄さんの思い出が更に色濃くなって居る。

 

毎年のお墓参り。私はいつも「おじさんの絵の才能が私にも繋がりますように・・・」とお願いしているが

到底繋がりそうに無い。

絵を思い切り描けないのは

元からの才能は勿論 こんな諦めも邪魔している気がする。

みんなの無念が渦巻いている。

 

f:id:yukopin601:20170703005445j:image(お兄さんが妹に似ていると描いた轟みちこさん)

 

届かない 手紙

お婆ちゃんに、おつかいを頼まれて

度々、近くの文具屋さんに出掛けていた。

買うのはいつも『便箋、封筒、ボールペン』

お婆ちゃんは倒れた後遺症で

小さなはっきりしない言葉になってしまったが、

いつしかそれをハッキリ理解出来る様になっていた。

おつかいから戻ると何度も

「ありがとう、ありがとう」と繰り返された。

照れ臭いけど嬉しかった。

 

唯一動いた右手で、いつも手紙を書いていた。

倒れたせいもあり、字は少し傾いていたけど

滑らかに続け字が綴られていた。

小さな私には続け字の美しさしか記憶に無い。

 

手紙は1度も投函される事は無く

いつしか書かなくなっていた。

 

誰に書いていたの?

何て書いていたの?

お婆ちゃんの思い。

知りたかったな。

私の根っこ。

『 私は 、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、弟、お爺ちゃん、お婆ちゃん、おばさん、おじさん、従姉妹のお姉ちゃん、犬、ネコ、小鳥と住んでいます。 』

登場人物だけで低学年の作文なら終わってしまう。

(一番ダメな文ですね(°д°) )

 最多の時は、10人プラス数匹が1つ屋根の下に暮らした。

 

お婆ちゃんは、戦争で亡くしたり病気で早く亡くした子供も入れて8人産み、54歳の若さで脳溢血。その後40年近く寝たきりだった。

その介護を自宅でする為に叔母家族が同居。

私の両親が共働きで、家計を支えた。

生まれた時から、お婆ちゃんは「寝てるもの」だったから何の違和感も無く。

気にしすぎる事も、気を遣わない事も無く

日々賑やかに過ごした。

 

倒れたら絶対に動かすな!の時代。

左手、両足は完全に動かなかったけど

動く右手で毎日字を書き、食事もとり、朝夕のベッドからお布団への移動はしっかりとすがって皆の負担を軽くした。

近くに誰も居ない時、用事が有れば孫の手をリズム良く刻む。孫の手 遠くに置いて父にこっぴどく叱られたなあ。

枕元に息を潜めて遊ぶ私を手鏡越しに発見・・・。目が合ったらドキッとしたなあ。

 

ダメージジーンズが流行り出した時代。

呼ばれ「破れているから縫いなさい!」

おにぎりを作ってと言われ持って行く。

呼ばれ「美味しい?」

「塩気。」←まずいよね

一事が万事そんな感じ。

 

自由に動く事は出来なかったが、かくしゃくとし、少しもブレない存在が とてつもなく大きく怖かった。

そんな頃から少しづつ思い出して行こうと思う。

 

 

『 海の泡 』

とにかく、時系列なども考え無くて良いから

思いを どんどん書く。

と決めてから既にかなりの時間が経ってしまった。

 

昔から すぐに飽きるし投げ出すし。

どこかに「またいつもの事か。」って思う自分がいる。

でも 昔とちょっとだけ違うのは、

隅に追いやっていながらも気になっている自分が見えた事。

仕方なく小さな頃を思い出そうとしてみる。

 

暗い海の底からポコポコッと上がって来る泡みたいに、気まぐれに思い出が、浮かんでくる。

掴もうとするとすり抜けて消えて行く。

次から次へとポコポコポコポコ浮かんでは来る。

でも掴む事は出来ない。

 

もどかしいけど、不思議と悔しさはない。

 

以前の私は小さな泡も見つけられ無かった。

今 四六時中私の心でポコポコ音を立てて

弾けている色んな思い。

何だか心地よい。

もうすぐきっと掴める。そう思えて。

 

「 ありがとう 」の落とし穴。

只今 新しい仕事を覚えてる最中。

引き継ぎを今月中に終わらせないといけない。

初めて聞く事ばかりで 即座には 理解不能。

 

「 数 こなさないと覚えないから ゆっくり行こう 」と言う自分と

「 早く終わらせなきゃ 」と言う自分と。

引っ張り合って 更に もたつく。

 

一昔前の私なら 分かった振りして見切り発車したはず。

でも今は きちんと理解したい。

 

疑問をぶつけて 指摘を受けたら

(この年で注意して貰えるなんて 有難いなあ)

「 有難うございます」

何かコツを 教えて貰ったら

(素直に)「有難うございます」

酷かった人のエピソードを聞いて

(前の方が辞めてくれたから私が入れたんだ)

「 有難うございます 」

 

きっと「すみません」より良いんだと思ってた。

 

そして今日。

いつもの様に教えを乞うたのち

「有難うございます」と伝えたら

「 いつもいつも有難うございます 言わなくて良いよ!体育会系? !」と言われた。

確かに中高 剣道部。いや 褒められてない!

 

色んな想いをひっくるめて 前の( )部分を飲み込んで

口に出した「 有難う 」だけど まだドコの豚の骨か分からない人に多用されても、伝わらず  きっとどこまでも 空々しいんだな。

 

 人間関係 出来上がってないと 素敵な言葉も台無しに

なると学んだ 昼下がり。

しかし文字にしてみると確かに鬱陶しい。

 

日本語 難しいなあ。

 

 

ちぐはぐカーテン

結婚した人は転勤族だった。

一人暮らしすらした事ない お家大好き人間が

いきなりの県外生活。

つるべ落としの11月 。とっぷり日の暮れた

一人の部屋で帰りを待つ。

 

数年おきの転勤。何処に行ってもアウェイ感。

どうせまた引っ越すから。と カーテンはいつもチグハグなまま。

 

15年 転勤を続けたある日 リストラを告げられた。

バタバタと支度し私の地元へ。

小さな頃からお世話になっている方のお宅を半分借りた。  中ドアが繋がっている不思議なおうち。

 

ただ生き延びる事だけ考えて

振り返る事もせず突っ走る。

6年経って ふと思う。

 

私は 子供を 旦那を 家を

ひとつも大切にしてなかった。

気付いた時に何かが弾けた。

もう戻れない事も分かる。

 

離婚が決まった。

旦那が家を出て

私は残る。

 

ちぐはぐカーテンは私たちそのものだった。

見て見ぬ振りで 淡々と暮らす確信的 無関心。

「 寂しいよ 」と言えば良かったの?

 

 8年目にして初めて

家に感謝して子供たちときちんと

向き合う決心をした。

次の1歩が始まる予感。

 

 

#離婚  #リストラ

#孤独感  

 

 

プラマイ‥プラス!

 先日、息子が久しぶりに病院に行く事に。

「 ひとり親医療証 持って行ってね 」

渡そうとして気がつく。

「切れてる!」 

 

今年の春に高校を卒業した息子。

息子の父親に「 三月で養育費は終了します 」と業務メールを貰い 「 それを補う位 私が頑張る!」って

就活を始め なんとか正社員を探す。

息子も専門学校の傍ら バイトを始めた。

 

あら 児童扶養手当も切れてる。

18歳。世間的にも自立のお年頃なのね。

 

依存心のカタマリだった私を奮起させてくれた出来事に感謝!かな。

 

そして息子が初給料からお小遣いくれて。

結果プラスになりました。(๑˃̵ᴗ˂̵)

 

「 子育て ひと段落かー 」と思う中 聞きたくなり

(母)『  おかーちゃん いっぱい抱っこしたかなあ? 』

(息子)『 キモっ!! 』

 (母)『・・・・・。( 今じゃないし〜 )』

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